映画告知「祈りの島 五島列島」

予告編映像を以下よりご覧いただけます。

「監督:榊 英雄」から映画製作について

未来へ向けた平和へのメッセージ

牢屋の窄殉教地

風化されていく歴史

牢屋の窄殉教地にある信仰の碑を見ると、とても胸が苦しくなります。キリシタンたちは、言葉に表せないようなつらい拷問を受けても耐え忍び、それでも執拗に続<拷問によって、体力のないお年寄りや子どもたちから次々と殉教していきました。このようなつらい状況においても、ひたすら信仰を守ろうとした先人の意思を、 私たちは伝えていかなければなりません。しかし、 150年以上経った現在、このような歴史は徐々に風化しつつあります。現代はとても平和で自由な時代になっているため、先人が守り続けてきた信仰があと1世代、2世代先になると消滅してしまうのではないかという危機感があります。
5代前の先祖は「おまえ、未来のためになんとかしろ!」と私に指示を出しているように思えてなりません。私が調べるまで、小島家の人たちですら、小島の先祖の墓の中でもひときわ大きな暮石が5代前の先祖のものだということを認識していませんでした。すでに風化は始まっていたのです。この地で260年前から受け継がれ、守り続けてきた信仰は、かつての人々が信仰の自由と良心の尊厳を主張するために立ち上がり、厳しい迫害を受けてもなお守り続けてきたものです。この事実を「このまま風化させるな!」と先祖が言っているのではないかと思っています。

牢屋の窄殉教

「五島崩れ」は長崎の大浦天主堂で洗礼を受けた久賀島の信者が「切支丹宗門だけを信じる」という願書を持って代官所に申し出たことに始まり、牢屋の窄殉教記念教会のあるこの地で、久賀島のキリシタンは全員牢屋に打ち込まれました。牢屋は奥行3間、間口2間、6坪という狭いスペースを、男女をわけるために中央を厚い板で仕切り、そこに200余名が閉じ込められたのです。あまりの狭苦しさで身体はせりあげられ足が地につかない状態、食べ物は朝晩に小さなさつまいもを一切れしか与えられず、息苦しさと飢えで泣き狂う子どもに顔をかき破られ、血まみれになる惨状。体力のない老人や子どもたちは次々と倒れ、その遺体を牢から出すことも許されずに踏み潰され、何日も放置されたそうです。人間に挟まれて圧死するなど、想像を超えています。さらには、三角に削った木の上に正座させ、大きな石を膝の上に桔み重ねる算木責め、 真っ赤に焼けた木炭を掌にのせ火吹き竹で火を吹きおこす火賣め、十字架に縛り付け裸体のまま海中に入れ寒風に晒す裸体海中寒晒など、考えられないような拷問も受けましたが、それでもキリシタンが棄教することはありませんでした。超人的精神力と信仰の力を身をもって主張した結果、後に信仰の自由を勝ち取ることができたのです。

心の傷

私の先祖は牢屋の窄で迫害を受けました。5代前と4代前(当時6歳)の先祖が牢屋の窄に入れられました。私の先祖は幼い子どもたちがほとんど亡くなっているなか、どのような状況かわかりませんが何とか生き残ることができました。
目の前で両親が厳しい拷問を受けていたら、6歳の子どもはどのような気持ちを抱くでしょうか。物心もつかない歳で牢屋に閉じ込められ、その子がキリスト教とか隠れキリシタンを理解することなどできたでしょうか。ましてや、そのような環境下で幼少期を過こした子どもが大人になったときどうなるのでしょうか。生涯消えることのない心の傷をもつことは、誰しもが想像できることだと思います。
祖父や父親にも心の傷があったように感じます。牢屋の窄殉教から約150年の時が過ぎた現代になって、ようやく迫害の事実自体を平和な社会環境が受け入れられるようになってきました。しかし、親の時代はまだカトリック信者は石を投げられたりしていたのです。差別という言葉が適切であるかわかりませんが、実際は差別されていたのです。
先祖は毎日教会に行き、祈りと信仰の生活を続けてきましたが、やはり心の内に残っている何かが大きく、他の人をなかなか信用していなかったのではないかと思います。祖父が夜中に畑に行くのは、 昼間に畑を耕しているところを見られたくなかったのでしょう。父親が子どもの頃に生活をしていた家は、家屋が建ち並ぶ山の中腹よりもさらに上の竹林の頂にぼつんと建っていました。私が子どもの頃はこの山を走り回っていましたが、なんでうちだけこんな街灯もない山奥にあるのだろうと思っていました。今思うと、 それは完全に隠れキリシタンの名残だったのです。恐らく人目につくところから離れたかったのでしょう。他者への不信感は、 キリシタンを先祖にもつ人々に共適することではありませんが、私の家系はそのようなところがあったように思います。これは宗教弾圧、つまり迫害された血の痛みだと思います。現代は平和な世の中になりましたので、 私自身はこれらの事をしっかりと受けとめ、伝える事ができると思っています。それは、私が五島で生まれ育つことがありませんでしたので、史実を俯緻的、客観的に見ることができているのだと思います。ですが、父親からすれば自分たちの先祖のことは話にすら触れてほしくないと思っているかもしれません。それほど心の痛みは深く残っていると感じています。
牢屋の窄での迫害の話だけでなく、それ以前の先祖が苦労して五島に行き着き、信仰を継承してきたことや、禁教令が解けて平和な時代になるまでの先人の苦労はなかなか表には出ませんが、実はとてつもなく大きく、つらいものだったのだと思います。

伝えたい史実

牢屋の窄殉教地は久賀島のカトリック信者の方々からすれば、先祖がそこにいたわけです。みなさんの考えは様々かもしれませんが、それぞれが強い思いを持っていると思います。信仰の碑の中には分骨された先人の遺骨が入っています。
「五島崩れ」と呼ばれる牢屋の窄殉教は、残していかなければいけない史実です。歴史の教科書に、明治元年 (1868年)「久賀島の牢屋の窄殉教で始まった『五島崩れ』」という一行を入れたいぐらいです。
私たちの子どもたちの世代になったら、今より教会や信仰に対する思いが希薄になっていくのではないかと思います。現代は豊かで平和な時代になりました。幸せな時代です。だからこそ、後世に向けてこのような史実を伝えることがとても重要だと思っています。

未来へ向けた平和へのメッセージ

本当に大切なことは、将来、牢屋の窄殉教地で起きた宗教弾圧、厳しい迫害を2度と起こさせないようにすることです。歴史は繰り返す。血を伴う人間の争いは、違うかたちであらわれるかもしれません。将来このような迫害や差別がないように、次の世代の人たちが平和を考え、歴史を振り返り、学び、そして平和な世の中にしてほしいために、「平和と人権と自由の象徴」として牢屋の窄殉教地を残したいというのが私の強い思いです。私にできることは、あくまでもこの場所を通じて殉教者のメッセージを残すことであり、未来に向けて私たちの子どもの世代、そして次の世代へと伝承してい<ことです。先人は、自分たちが厳しい迫害のなかで殉教した信仰心溢れる人間であったことを伝えてほしいなどとは求めていないと思います。やるべきことは、未来の子どもたちに平和な世界を継承することです。
最期に、「五島列島支援プロジェクト」とは、私たちの子どもたちの世代、そしてその次の世代が平和な世界であるために、五島列島から伝える「未来へ向けた平和へのメッセージ」なのです。

Q 「五島列島支援プロジェクト」とはどのような活動ですか。

A 「五島列島支援プロジェクト」は、五島列島の地域活性化を目的とした活動です。その原点にあるのは私が五島に初めて行った約6年前、その時に牢屋の窄殉教地を含めたキリスト教における殉教の歴史を初めて知ったことです。牢屋の窄殉教地がある久賀島は私が訪れた当時、人口が約400人でした。地元の警察官に伺ったら、毎年20人ずつ減っているとのことでしたので、あと10年か20年で住民がいなくなるのではないかと言う話をお聞きして、非常に危機感を覚えました。

私が初めて久賀島に行ったときに、牢屋の窄殉教地で先祖が迫害をうけていたこと、そして久賀島の旧五輪教会は五輪地区と小島地区とで一緒に守ってきた祈りの場であり、私の祖父を含む先祖もこの教会で祈りを捧げてきた信仰の場であることを知りました。島に人がいなくなり、もし将来、無人島になるようなことがあれば、先人が命をかけて守り続けてきた信仰の歴史がすべて無くなってしまうのではないかという危機感から立ち上げたのが「五島列島支援プロジェクト」です。

島の人たちが生活する環境は厳しく、若者が戻って来ないと人がいなくなってしまい、やがて無人化してしまう。人がいなくなるとこれまでの信仰の歴史が消えてしまい、先人が苦労して培ってきたことがすべて風化してしまいます。なんとか島に荘らす人のためにならないかと思い、地域活性化を目的とした活動を行っています。この活動は大きな3本柱があって、1つ目は、五島列島をPRすることで、観光などで五島列島に来る動機作りをすることです。来島者の増加により、これまで以上に活性化できるように五島列島の紹介、観光誘致を含めたPR活動を行っています。2つ目は、島の基幹業務である水産業を中心とした地場産業の活性化です。

具体的には五島列島の水産業の活性化を目的として、首都圏を中心に鮮魚の 島外流通を行っています。私が経営する株式会社スーパーソニックは外食産業のコンサルティングを行っておりますので、東京の飲食店の仕入れ状況を熟知しています。具体的に鮮度管理や食文化の違い等のニーズ分析を行い、関西までしか流通がなかった鮮魚を首都圏に拡大することで、水産業の活性化を目指しています。最後の3つ目は、五島列島の教会群と信仰の歴史の保全です。隠れキリシタンとして潜伏していた時代が終わり、禁教令が解けてキリシタンが復活した時、その集落にいた信者が苦労の末に祈りの場として教会を献堂したからこそ、今の教会が残っているのだという歴史をしっかりと伝えていきたいと思います。

単に教会が建築物として観光施設になってしまう可能注もありますが、その昔、言葉では言い表せないような苦しい思いをして先人が信仰を守ってきた証しとして、ここに教会が残っているのだ、と伝えることが教会保全の重要なことだと思っています。私たちは支援者でありサポーターですので、 東京でできることを行い、島の方々の生業が今以上に活性化できるような支援をすることがこのプロジェクトの骨格です。島の農業、水産業、加工業を含めた地元の方々の生産鑽が増えるように私たちが東京で宣伝をして、首都圏ないしは全国に島の特産物を流通し、島には観光客が増えるよう呼びかけることです。人が来ることで、交通機関の利用も増加しホテル等宿泊施設も稼働します。そこで島の郷土料理も食べられ、島の製水産品の消費も増えて活性化につながります。

その為には、まず人を呼び込むことです。東京で知り合う方々は五島列島がどこにあるのかも知らない方がほとんどですので、島がどこにあるのか、そしてどのようなところなのかを知ってもらうようにホームページやFacebookを用いることで五島列島のPRを行っています。懇店で見かける観光ガイドは、主要なとこるが数カットしか載っていません。実際には綺麗な風景がた<さんあるのに、まった<紹介されていないのです。地元の人にとっては日常の風景ですが、私のように東京の人が見ると素晴らしいと思える自然の風景をうまく伝えられていないのです。そういった場所を多く紹介してい<ことで五島列島の魅力を島外にアピールしています。

※「光の五島」(2015年)掲載より引用